愛って何? 愛の意味に迫る

愛って何だろう?誰だって、きっと一度は真剣に考えたことがあるでしょう。

 

もちろん、一人で考えたって本当の「愛」が何なのかを知ることはできません。かといって、誰かに「愛って何ですか?」と聞いたとしても、その答えはまちまち。それもそのはずです。その人たちだって、私たちと同様愛の意味を追い求めている途中なのです。

 

誰かに愛の意味を聞いたとき、そのほとんどが、分かったようなわからないような、そんな答えが返ってきます。「あの人、うまいこと言ったな」なんて、いっとき納得したとしても、一週間もすれば、また「愛って何なんだろう」という悩みが出てきます。

 

今回はそんな悩みを持つ方のために、できるだけ分かり易く、いろんな方向から愛について語っていきたいと思います。この記事が愛を探しているあなたにとって、少しでも助けになれば幸いです。

 

I LOVE YOUは、分かりにくい

「愛」という言葉は何気なく使っている言葉ではありますが、いざその意味を説明するようにと言われると、誰しも困ってしまうものです。それは私たち一般人だけに限った事ではありません。それは、前後の文脈でも変わってきますし、状況によっても変わってしまうものです。

 

翻訳家の戸田奈津子さんは「I love you」を「文通しよう」と訳したことはインターネット上ではあまりにも有名ですし、かの有名な二葉亭四迷は「私は死んでもいい」と訳したそうです。夏目漱石は生徒の「我君を愛す」という訳を「”月が綺麗ですね”といいなさい」と諭したといいます。

 

特に日本ではこのloveという言葉の訳を現代でも、もてあましているともいえるでしょう。英語のloveを「愛」と訳した福沢諭吉もこの結論に至るまでにはたいそう苦労したといいます。福沢諭吉は当初このloveの訳の候補として「惚れる」という言葉を当てようとしたそうですがニュアンスの違いにどうしても納得ができなかったそうです。

 

しかし、福沢諭吉がLOVEを愛と訳す以前にとても素晴らしい訳をしていた人たちがいました。まずはここから、愛の本当に意味について探っていきましょう。

愛とは「大切」にするということ。

英語で「愛」といえば「love」です。

 

しかし、もともとこのloveという英語が日本に輸入されてきたときには「愛」と訳されていませんでした。後程ご紹介しますが、古くから使われていた「愛」には性にかかわるニュアンスや欲望に近い感情が色濃く反映されていたからです。

 

では、このloveは何と訳されていたか?それは「ご大切」です。これは、当時のキリスト教徒、つまりはキリシタンと呼ばれる人たちがこのように訳していました。これは、神様が私たち人間をいとおしと思う気持ち。つまりは、お母さんが子供を愛しいと思う気持ち。何の見返りがなくても、相手のことを大切にしたいという気持ち。

 

それがもともとの愛という意味でした。私はこの「ご大切」という言葉がとても好きです。まだあなたがとっても小さかった頃、お母さんに大切にされたことを思い出してみてください。心があったかくなるような本物の感情を抱きませんか?

 

また、あなたがまちで小さなかわいらしい子供を見たときのことを思い浮かべてみてください。そこにも、心が温まるような気持ちを感じることができるはずです。これを愛情と呼ぶことは誰しも納得ができると思います。

 

loveを翻訳しようとした当時の日本にも「愛」という言葉がなかったわけではありません。しかし、この「愛」という言葉は、当時の日本ではあまりいいイメージばかりではありませんでした。それは、この「愛」という言葉に含まれれる「執着」と「性欲」が原因だったからです。続いて、このことについて考えていきたいと思います。

 

愛とは「執着」である。

愛ということを考えるうえで、決して避けては通れないのがこの「執着」です。執着というのは簡単に言うと「私の思い通りにしたい!」という強い気持ちのことです。仏教では、この種類の愛のことを「悪いもの」としていました。愛するもの、つまり、執着するものがあるからこそ、人間は苦しんでしまうと考えていたのです。

 

確かに、誰かを愛してしまったときに「一緒にいたい」「私のほうを振り向いてほしい」「どうして~~してくれないの?」そういう思いがどうしても出てきてしまいます、そのような感情を持つことが苦しさにつながると仏教では教えていました。

 

実際にお釈迦さまは修行を始めるときに、本当であれば愛してやまない息子のことを「ラーフラ(障害)」と名付け、修行の邪魔になると考えました。愛情から生まれる執着という気持ちはお釈迦様でさえも簡単には退けられないのです。

 

凡人である私たちが、そう簡単にこの執着を手放せるはずがありません。私たちの持つ愛情(=執着)というのはそれほどまでに強い思いになるのです。「愛着を持つ」のは普通に生活をしている分には良いのかもしれませんが、行き過ぎてしまうとストーカー等につながってしまう恐れがあります。

 

誰かを思うこと、それ自体はとても素晴らしい感情ですが、私たちが誰かのことを思うときにセットで「あの人が、私のことを好きになってくれたらいいな」「あの人が私の思い通りになってくれたらいいな」という気持ちを抱いてしまいがちですので、注意をしなければなりません。

 

あなたが大好きな人のことを考えたときにはできるだけ「これは愛情だろうか、執着だろうか」と考えるようにしてみてください。

 

それは「愛」なのか?

私の偏見もあるのかもしれませんが、よく親が「子供に愛情を注ぐ」というのを耳にします。しかし、私はこの時に注がれているのは「愛」ではなく「執着」だと考えています。

 

「(私の思い通りに)子供に幸せになってほしい」というのは実は子供目線に立っているようで、実は完全に親目線に立った執着でしかありません。例えば、子供に対して「将来のために勉強しなさい」というとき、そこに先ほど紹介した「ご大切の気持ち」のような心温まる気持ちが本当に生まれているのでしょうか。

 

本当に子供のことを愛しているなら、たとえ子供がどうなろうとも子供に対する温かい気持ちを持っていられるはずです。私はこのことを思い出すときにいつもあるお話を思い出します。それは「五体不満足」の作者として有名な乙武洋匡さんの誕生エピソードです。

 

乙武さんはご存知の通り、「五体不満足」の状態で、この世に生を受けました。病院側はお母さんが生まれてきた五体不満足な乙武さんの姿を見てショックを受けるのではないかと思って、1か月間乙武さんの姿を見せなかったそうです。

 

しかし、病院側も生まれてきた子供の姿をずっと隠しておくことなんてできません。意を決した病院側はとうとうお母さんに五体不満足な赤ちゃんの姿を見せることにしました。そして、初めて五体不満足な赤ちゃんの姿と対面したときのお母さんが思わず発した第一声が「かわいい」だったそうです。

 

《手足のないわが子を見て、母が思わず口にした言葉が、「かわいい」。それが僕と母の出会いだったのだ。まさにそのシーンに象徴されるように、両親は奇抜なカラダで生まれてきた僕を愛情いっぱいに育ててくれた。その結果、僕のなかで自己肯定感が育まれた》(『文藝春秋』’13年4月号)

 

私はこの時のお母さんに本物の愛情を感じます。また、乙武さん自身もこの時の第一声がずっと自分を支えてきたと感じていたそうです。こんな思いを相手に対してずっと持ち続けることができればどれだけ良いことでしょうか。

 

私たちは、誰かのことを強く思うとき、その人のことをどうしても「思い通りにしたい」と思いがちです。

 

でも、私はそれでしょうがないと思うのです。それが執着だといわれても、好きな人に振り向いてほしいという強い気持ち、自分にとって大切な人が自分の思うように幸せになってほしいという気持ちが出てきてしまうのは仕方のないことではないですか。

 

誰かのことを強く思う、一緒にいたいという気持ち、それが愛の一つの形であることは明らかだと思います。

 

愛とは性欲のことである。

愛を語るときに「執着」と同様に避けては通れないことがこの「性欲」です。実際に「愛人」といえば、奥さん以外の肉体的な関係を持った人のことを言いますし、「愛欲」といえば、性欲とほぼ同じように使われます。

 

特に家族や子供ではなく異性に向けた愛といえば、決して性欲と切り離して考えることはできないでしょう。

 

特に若い時分には性欲の高まりが止められない経験が誰しもあると思います。また、愛する人と愛を確かめ合った後の充足感といえば、ほかに比べられるものもありません。充足した交わりを経験したことがある方なら、この瞬間に疑いようのない愛を確信した方もおられるかと思います。

 

確かにいとおしいと思う人に対しては性欲が高まるのも事実ですが、私はその気持ちだけを抽出して「愛」であるというのはいささか乱暴だと思います。

 

例えば、愛と性欲がイコールであれば、大切にしている人はいなくても、お金で充分に性欲を満たす事ができている人は愛情に満たされていることになります。これにはさすがに納得できません。このような人はクリスマスキャロルのスクルージのように、きっと常に寂しい思いをしているのではないでしょうか。これは「愛」の姿からとても遠いところにいます。

 

愛と性欲とは全く別物です。性欲は、若い時に異性に対する愛情を持つと燃え上がるという性質を持っているだけであって、愛のない性欲もあれば、性欲のない愛情も十分にあり得ます。また、一般的に愛情は善であるが性欲は悪であるという意識があります。例えば、「体目当て」という言葉などはその最たるものでしょう。しかし、性欲は決して悪いものではありません。

 

愛を象徴する仏様

仏教では愛染明王という仏様がいます。普通、仏教では「煩悩をなくしなさい」というのですが、この仏様は燃え盛る性欲のエネルギーを使って、自分自身をより成長させてくれる仏様です。とっても怖い顔をしているのですが、仏様の中でもとても位の高い方です。

 

誰かを思う強い気持ちというのは時に自分を大きく成長させてくれます。

 

「あの人に認められたい」「あの人にふさわしい人間になりたい」そう思って自分自身を高めてくれるのは愛欲のなせる業なのではないでしょうか。愛欲はここまででご紹介した「ご大切の愛」や「執着の愛」では考えもつかないほど人間を成長させてくれるものです。

私は誰かを思うことで自分自身を高めてくれるもの、それが愛だと考えています。

 

西洋哲学:愛は言葉では語れない

さて、今までは日本における「愛」について考えてきましたが「愛」というテーマは西洋でも同じように議論されてきました。

 

それは「哲学」と呼ばれる体系の中で議論されてきたのですが、近代哲学に大きな影響を与えた人物の一人にヴィトゲンシュタインという人がいます。ヴィトゲンシュタインは「愛」を含めた「言葉」の仕組みを深く追求した哲学者として知られています。

 

ヴィトゲンシュタインは言葉とそれに対応する事実について注目しました。ここでいう言葉というのは「事実に対応するもの」です。そして、事実というのは客観的なもの、つまりは、「私以外の人でも確認できるもの」のことを言います。

 

「愛している」は事実ではない。

この考え方を用いると、「私はあの人を愛している」という出来事は一見事実のように見えますが、実は違います。

 

なぜなら「彼を愛している」というのはその言葉を話している人にしかわからないことだからです。もしかすると、残念ながらその人は「私はあの人を愛している」という言葉を発しながら、実のところ、うそをついている可能性だってあります。

 

この出来事の事実を語るとすれば「私は昨日あの人とあったときに心拍数が●●上がり、血圧は●●上昇し、~~というホルモンが分泌された」となってしまうでしょう。でも、そんな心拍数や血圧の上昇が愛であるはずないことを私たちは知っています。

 

結論から言うと、私たちはどれだけ頑張っても「愛」という気持ちを誰かと共有することはできません。たとえ愛し合っていると思ったパートナーであっても、残念ながら相手の心の中を知ることはできないのです。

 

結局、私たちが抱えている「愛している」という言葉はどこまで行っても、それを発している自分自身にしか理解できない言葉なのです。

 

ヴィトゲンシュタインの最も有名な名言は「語りえないもののついては、沈黙しなければならない」という一言です。彼の主張はとても難しいものなのですが、彼はその深い哲学の中で「愛なんていう目に見えないもの(語りえない事実)について、どれだけ語っても無駄だよ」というとても寂しい哲学的な結論を導いています。

 

つまり、私たちが「愛」についていろいろなことを考えたり、語ったりしても、それはすべて意味のないことだと彼は語っているのです。

 

誰もが納得できる「愛」なんてない

「語りえないものについては沈黙しなければならない」それは、ヴィトゲンシュタインが初めに導き出した哲学的な結論でした。しかし、彼は後々その考え方を改めることにしました。

 

詳しい解説はここでは割愛しますが、彼はすべての言語を「みんなが根拠もないままなんとなく決めたもの」と結論付けました。つまりこの結論に従えば、わたしたちもこの「愛」という言葉をなんとなく使っているということになります。

 

「あなたは愛という言葉をただ何となく使っているんだ」といわれると、ちょっと抵抗したい気持ちも出てきますが、よくよく考えると実際には確かにそうかも…。と思ってしまいますよね(笑)言語というのは、実はそれぐらいもろいものなのです。

 

愛の意味は様々である

そして、ヴィトゲンシュタインに続く哲学者であるデリダは「誰かの決めた意味に縛られることはない、解釈は自分で決めて良い」(脱構築)という主張をしました。

 

これは、何万ページにもなる愛の本であっても、誰もが納得できるような愛の本質を言い当てることはできない、どんな文章であっても、そのとらえ方次第でいろんな解釈ができるということを意味しています。

 

例えば、一時ブームであった「失楽園」を読んだことがある方も多いと思います。あの本ではどうしようもないほどの気持ちに従って不倫をした二人が苦しみながらも愛し合い、最後に死んでしまうという話です。

 

この本は「不倫をすると苦しくなる。愛とは厄介なものである」という批判的な解釈もできますが、「苦しみを乗り越えてでもお互いを求めてしまう愛」を賛美した本という解釈もできます。つまり、西洋哲学のたどり着いた結論、それはそれぞれの人が、「誰もが納得できるような”愛”の意味なんてものはない、愛の意味はそれぞれが解釈すればいい」というものでした。

 

「愛」の意味は自分自身で決めて良い

さて、西洋哲学のたどり着いた結論、それは「愛という言葉の解釈はそれぞれの人が決めればいい」という、なんだか突き放されたようなものでした。実は、西洋哲学は過去に「人生」という大きなテーマでも同様のテーマを導いていました。

 

それは、「人生に、意味なんてない」というとても残酷なもの。しかし、この残酷な結論に新しい息吹を与えたのが西洋哲学大家サルトルでした。サルトルは「人生に、意味なんてない でも、だからこそ、自分の意志で意味を作って生きていくんだ!」ということを主張し新しい時代を切り開いていきました。

 

私はこのサルトルの主張こそ、愛を求める私たちにとって参考にするべきものだと思います。愛が何なのか、誰も決めることができない。でも、だからこそ、あえて自分の意志で愛の意味を作り上げていきたいと思うのです。

 

「それぞれの人が自分が納得する「愛」の形を持つ」ことが大切なのだということです。愛の意味、それはあなたが、あなただけのために見出していけば良いものなのです。